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幕末二本松少年隊悲劇_6

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二本松少年隊の悲劇



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二本松少年隊の悲劇と霞ヶ城(悲劇と敵の懊悩)<No.1・・・<No.6(現在の頁)<No.7<・・・
二本松少年隊の悲劇_皆の悲劇と敵の懊悩_No.6
二本松戦SERIES:No.1No.2No.3No.4No.5No.6(現在の頁)<No.7No.8
シリーズ:■1~2:大脈,木村銃太郎先生,大壇口のニ勇士,野津道貫他,■3~6少年達の悲劇、各個人編,
■7~8:大人の犠牲者と活躍、おまとめ
少年達、皆それぞれの悲劇
二本松少年隊(少年達個別編2)
年少少年の部_その3

右側スクロールコーナーについて
リンクの入っていないところは準備中。
もう暫くお待ち下さい。
A11_成田才次郎14歳
敵の隊長を一生涯、弔い続けた父

哀れ成田才次郎、14歳は、天に飛び去った。
しかし、彼は、実に重厚な苦渋のテーマを残した。

父は、以来、完全に時が止まった。

念仏三昧、詫び三昧、祈っても詫びても、
平伏しても、罪は消えない!!

子は、長州の白井小次郎を
斬ってしまった!!

長州は敵。子は正しい。されど、それは罪。
第三者まで、頭抱えた!武士道の掟、人としての道義、されど少年
■切羽詰って究極の秘伝 & ■少年の状況判断力、その限界

いきなりですが・・・こんな経験はないでしょうか?
  ▼

■切羽詰って極限、言うなれば生きるか死ぬかの瀬戸際・・・・
そんな時、思いを決して、その人だからこそ、打ち明けて・・・

すると、その人物は、その時に限って、初に口を割り、
・・唸るようにして、究極の『切り替えしの策』を吐き出してくれた・・
(その正反対の例▼)
■この上なく愛する者、子弟等が極限に立って、もはや限界・・・。
・・・本来なら、けっして教えない事を、意を決して、一気に伝授した・・

こうした事は、頻繁にあってはいけないことだし、
たとえ時が流れた後とて、まず、第三者には言えはしない。
幸い経験のない人もいつか遭遇する。

教える側とて、非常事態以外の時に聞かれても、思いつかない。
後で考えると、とても自分本来の力と思えない。
有り難い事に、普段、この力量はない。無くて幸いだ。

突如、天から猛烈なパワーが降ってくる。
・・・唸って、呻いて、立て板に水。一気に吐き出す。究極の策。

それらの策は、時が流れて平穏を取り戻した時、自分に問い糺せば、
大抵、道義的には・・・絶対正しくない!!吐く側も、同罪の腹をくくる。

普段なら言えないどころか、思いつきもしない事が、沸いて出る。
たとえ歪んでいようと、それしかないから、血を吐いて語ってしまう。

無事、元の平穏に戻れた場合、教えを乞うた側は、調子に乗って
二度三度、悪用したりしない。不思議だ。必ず、それっきりで終ってくれる。

しかし、それは相手を間違えなかった証拠。
「さりとて、こやつの技量では無理だろう。」そう思えたら、吐くに吐けない。


吐くか否か、悩む時は・・・つまり無理なのだ。しかし、父なれば、愛に負ける。

通り過ぎた何時の日か、信じて見込んだ己の目に狂いがなかった事だけが、
せめてもの救いだったと、ふと自嘲する。この瞬間に師は必ず老いる。
しかし、それは
  『満願の老い』  だ。

慶応4年7月末、天は、二本松藩士、
成田外記右衛門に対して、
その『満願の老い』を与えることなく、
なぜ故か、善人の彼にも天罰を下した!!
第三者まで、頭抱えた!武士道の掟、人としての道義、されど少年


『武士道の掟』  と  『人としての道義』

・・・育っていても、解っているようでも、子は子だ。大人じゃなかった。

父の生涯罪滅ぼし:判断力に係る『少年と大人』のギャップ、
少年とは、いったい、幾つ位から、大人になるのだろう。
悲しいけれど、やはり違った・・・。


可愛い倅、才次郎の死は、その悲しみのみならず、父に深い懊悩を残した。


二本松では、遠い昔のある事件に際して、二本松初代藩主光重が語った話が、
後々、藩士達には、大切な教訓として言い伝えられていた。

ちなみに、彼ら、才次郎とその父が今暮らしているのは1868年。
父、成田外記右衛門の脳裏に閃いた事柄の大元は、当時からすれば、
167年前にあたる1701年の話である。

ある事件とは、かの有名な「刃傷松の廊下事件(1701年)」
二本松の初代藩主:光重は、赤穂浅野家の親戚だった。

光重公は、事件の結末、切腹を仰せ付かり、無念の最期を遂げた赤穂城主、
浅野内匠頭_長矩(あさの_たくみのかみ_ながのり)の悲報を聞くなり、泣いて
悔しがった。親戚である以上、光重公は、身内の胸中を察したのだろう。

「長矩殿ほどのお方が、そこまで思いつめるなれば、
余程酷い目に遭わされたに違いない。
・・・
されば、なぜ故、斬り損ねたのじゃ!!
斬ろうとしたからいけないのじゃ!突けば、仕損じないものを!!」


藩主は、純情な人柄だった長矩を思い、悔し涙に泣いた。

その為、二本松では剣術の中、『突きの価値』は、初代藩主による直伝である以上、
大切な教えとして、彼らの心に刻まれていた。(参考:刃傷松の廊下事件とは

博学の父の頭脳にはその古い教えも、浸透していた。


木村銃太郎砲術塾の子、成田才次郎


成田才次郎は、木村銃太郎砲術塾の子。(木村銃太郎砲術塾について

木村先生は、江戸帰りの若いエリートだ。才次郎はその立派な先生に、
最新式の西洋砲術を学んでいる。

木村先生が就学していたのは、故江川英龍が創立した江川塾。
先生が学んだ講師陣のトップは、大鳥圭介(箱館戦争敗戦降伏:蝦夷では陸軍奉行)。
ここで学んだ木村先生の授業は濃厚だ。

射撃術に限らず、砲の組み立て、構造知識、火薬の調合など範囲は広域である。
江川塾に於ける砲学とは、現代でいえば、数学、科学、工学。物理もあれば、化学的範囲も。
また、火薬知識の分野では、気象学(江戸時代なので、これはちょっとレベル高くないが)に
値する内容も含まれている。

そこで教わった先生の開いた木村塾に通う才次郎は、戦争さえなかったならば、
将来、さぞ頼もしい存在になったことだろう。確かに、この先生は、知識分野や、
組み立てなど、地味な分野も真剣に教え、少年達が憧れや興味本位で、射撃術にのみ、
関心が傾いてしまわないように、しっかり導いていた。

それだというのに、戦争が少年達を巻き込んだ!!


他藩の援兵に駆り出され、二本松には強い大人達が完全に不足した。
運悪くも、その時に限って、官軍が踏み込んできたのである。

我が郷土、我が藩の為、皆が立ち上がった。
老人も、年少の少年も皆、自主的に、戦場へ向かった。

木村塾も、木村隊と名を変えて、先生と幼い子達が戦場へ向かうことになった。
幼い子が多いこの塾とはいえ、生徒達は、砲学知識を重ね、
現実に射撃訓練を受けた少年なのだった。

少年達の胸にも、正義感が燃えていた。

僕らの二本松を侵そうたって、そうはさせるものか!
絶対に戦ってみせる!僕らにはこの砲がある。砲のことなら、誰にも負けないぞ!
官軍なんか、今に見ておれ!木っ端微塵に、ぶっ飛ばしてやる!


慶応4年、7月28日、木村塾の生徒達は、いよいよ、先手を打って、出陣となった。

先生は、官軍が市街地になだれ込んで砲弾が飛び交う前に、塾生を陣地に導きたかった。
また、体の小さな彼らの身長に見合う高さで砲を備える目的もあった。


成田才次郎14歳、出陣の朝


この頃、二本松では、男子は皆、各隊に従軍参戦している。
どの家でも、既に、身内に死者が出ていた。年少の少年とて、親は出兵を拒む
権利など、どこにもない。成田家も条件は同じだった。

ましてや、武士の家なのだ。完全に武家の教育が彼らを支配している。

「男子、軍に従う。もとより、生還を欲せず。」

それが、鉄則だった。子が、生きて帰りたがる腰抜けに育つくらいなら、親の資格が無い。



いよいよ、出陣の朝。父、成田外記右衛門は、天の恵みか、
幸い、倅の顔を見ることができた。

子らと異なり、父の従軍は、初めから、最も危険な地帯だ。
今日という日まで、存命できたことは、むしろ奇跡に近かった。

外記右衛門は腹をくくっている。もはや、これ以上奇跡は続くまい。
今生の別れに、我が子の顔を見れたことに感謝した。

己が生き続けるのであれば、時間をかけて、倅にもっと色んな事を
教えることもできよう。されど、今度こそ、最期になるかもしれない。
そんな思いが脳裏を過ぎった。

木村先生の先見の目、事前に戦場に布陣するという我が子。
父が倅を、見送る形になった。

戦装束に身を固めた才次郎は、玄関先で両親に頭を下げ、きちんと挨拶をした。

「父上、刀をありがとうございます。
この才次郎、武士の名に恥じぬよう、もはや生還を欲しませぬ。
必ず、敵の首を討ち取って、討ち死覚悟でまいります。
父上、母上、お世話になりました。」

父は、夕べのうちに、倅に腹をくくらせた。
陣が敗れ、子らが白刃戦に巻き込まれる可能性を倅に語って聞かせると、
今までの稽古用の刀に切り替え、家宝の真剣を与えたのだった。

今、見事、子は親の期待に答え、立派な挨拶をした。

しかし、ふと倅の技量が気になった。
一瞬嬉しそうに、刀に手を触れて見せた倅の手付きは、やはりぎこちない。
それは、どう見ても、真剣の重みに叶う腕ではない。
稽古刀の時と違って、そのまずさが露骨に目に付いた。

「されば」と再び頭を下げた倅。
この時、父は、彼を呼び止めるなり、思わず、血を吐く思いで語り聞かせた。

それが、まさに、二本松古来の「突きの法則」だった。


「才次郎、よいか、聞け!
おぬしの腕であえて、斬ろうとするな。
斬れば仕損じる。されば、突くのじゃ。
突けば、必ず仕損じることはない。
解ったな!!」


真剣な眼差しで父を見上げた才次郎。
彼は、こくりと頷いた。



木村隊長戦死、彷徨える少年達



運命の日、7/29日、いよいよ、戦闘が開始された。

次から次へと沸いて出る大勢の官軍。立ち向うは、子供ばかりの僅か20余人の集団なのだ。
いくら技量が良くとも、激戦の中、弾薬も尽きた。もはや絶望。

それどころか、少年砲隊を率いる木村隊長が戦死してしまった。
撤退途上で、二階堂副隊長まで撃ち殺されて、少年だけの群れとなった今、
たちまち修羅場と化した。

飛び交う銃弾の嵐。少年達は、逃げつつ隠れつつ、いつしか、皆散りヾになった。
砲煙が充満した戦場を幼い少年達が彷徨った。
戦場の掟。 討ち死した者、襲い斬られて死んだ者、被弾して倒れた者、
その多くが命を落としたのであった。


ところが、そればかりではない。少年とて、武士の意地がある。

尊敬する木村先生を殺した憎い官軍!!戦って仇を討ってやる!
・・・・負けん気の強い才次郎は、この時、幸い存命していた。

彼は、偶然、松坂門付近で、叔父の篠沢弦之助に遭遇した。
そこらじゅうで凄まじい白刃戦。その最中のことだ。

叔父は大声で叫んだ。
「才次郎、お前は子供じゃ。かまわぬ。もう良いから、家へ帰れ!」

しかし、甥子は、明らかに抵抗を示している。
兵達の叫び声の中、よく聞こえないが、「男として、おめおめと帰れるものか!」
そんな内容を言ってるようだ。

「かまわぬ!さっさと帰れっ!」

叔父も、それどころでない。斬るか、斬られるか。
怒鳴りつけるにも等しい勢いで、そう叫んだのが最期となった。



この後、才次郎は、やはり引くに引けなかった。男の意地がそれを許さない。
「我とて、武士の子じゃ!父上の刀があるではないか!」

彼は己にそう言い聞かせつつ、ふらふらと歩いて行った。

叔父には強気で接したものの、気力と裏腹、体力が限界だった。
ぶっ通しで何時間も、砲を扱った死闘の後なのだ。視力さえ衰えていた。
それに加え、少年の基礎体力。空腹が極限まで彼を衰弱させていた。

ふらふらと、西谷門まで、どうにかたどり着いた時、なんと、彼は
敵に出喰わした。「貴様らの運も、これまでじゃ!」
勢い良く飛び掛ったつもりが、よろけて転んだ。

敵の隊長は、我が目を疑った。
「なんと!子供ではないか!!」
この隊長は、長州の白井小四郎である。彼は早急に兵を制止した。

今にも倒れそうな少年。右へ左へよろめきながら、徐々に近づいてくる。
一応は抜刀しているものの、その刀は杖がわり状態である。

彼はいきりたつ兵達を必死で抑えた。
「ならぬ!ならぬぞ!子を撃ってはならぬ!」大声を発した。

少年は、見るも哀れな姿。歩行でさえ、危うい。
見逃してやりたかった。たとえ敵とて、子を死なせたくなかったのだ。

あの子を、これ以上脅えさせずに、通過させてやろうと思った。

白井隊長は両手を広げ、気の逸る兵を全身で塞ぎ込むような姿勢を示し、
才次郎にわざと戦意無きを誇示してやった。

こうせぬ限り、脅えたこの子は、無意味に斬り掛かる。本人は攻撃したつもりでも、
どうせ、たちまち、自隊の兵に斬り伏せられるにちがいない。
隊長は、少年に声をかけた。

「安堵せい。早く通れ!」

その時だ!!なんと、才次郎は、白井隊長の胸に
一気に『突き』を入れたのだった!!

どくどくと赤い血が流れた。呻き倒れる白井隊長。
途端に、数名の兵が襲い掛かろうと、飛び出した。

「おのれ!くたばれ!糞餓鬼っ!」

すると、地面に倒れた隊長は、最期の力を振り絞って叫んだ。

「ならぬ、ならぬ!この子を殺すな!命令じゃ!
断じて、それは許さぬ~っ!」

死の直前まで、彼は、兵にこう言いつつ果てたのだった。

「己の油断じゃ。この子を殺すな!」

それが即ち、彼の遺言となった。



才次郎には走り去る力も無い。逃げるに逃げれぬ。
刀を杖にして、ふらりふらりと去って行ったという。

その為、あの少年は、隊長の言葉も、
絶命の瞬間も聞こえたはずだろうと言われている。



この後、彼の目撃情報は無い。そして夕方、哀れ、才次郎は、
遺体で発見された。彼の死亡現場は、家側とは正反対だった。

折角逃がしてもらったのに、この子は、別の場所で戦死した。
それは、息絶えた少年の顔面の傷が物語っていた。

「この子を殺すな!」そう言って死んだ敵将の姿。その声が耳に残るまま、
ふらふらと歩き続けながら、彼は、何を思ったことだろうか。

もう一度やり直しを試みたのか?今度こそ、『本物の悪い敵』を見つけて、
そいつを殺してやろう・・・そう考えたのだろうか?
家へ向かわず、新たに彷徨った。

帰るに帰れぬ身となった己がここに居る。
ふとそれに気付いて、その瞬間、突如大人になってしまったのだろうか。
悟ったか否か、しかし、偶然にしてほぼ同時に死神が彼を襲った。

万事不明だ。死者に口無し。
原因も、相手も何一つ解らず終い。目撃情報も得られなかった。
斬られて死んでいた。ただそれだけだった。

才次郎の命日は、7/29。彼を救おうとして絶命した
白井小次郎と同じ日となった。


二本松では、こんな狂歌じみた言い伝えもあった。
「良かれ、悪しかれ、武士の子、マムシの子、
そいつだけは、手出し用心。身の用心。」


少年を助けようとした為に死んだ男の話は、たちまち伝わった。
やがて、父、成田外記右衛門の耳にも入った。

重症を負い、やっと復帰した親戚の篠沢弦之助も泣いた。
後日、篠沢氏はふと思った。

あの時、銃弾の音と凄まじい白刃戦の発する金属音。
兵達の叫び声。その中で微かに、聞こえていたような気がしてならない。

「俺は、絶対、敵を殺してから死ぬんだ!」
・・・錯覚なのか、現なのか、己の気の迷いか。叔父も冷めヾと泣いた。



父は、以来、完全に時が止まった。

念仏三昧、詫び三昧、祈っても詫びても、
平伏しても、罪は消えない!!

倅を救おうとした恩人、「白井小四郎」は、今や墓の中。



父は、幾度も死んで詫びようとした。しかし、住職達に阻止された。

「死んで詫びるより、生きて耐えるほうが、余程過酷なのじゃ。
その過酷に耐えねば、倅も白井殿も成仏できぬ!」



成田外記右衛門は、一生涯、死ぬまで、真行寺の「白井小四郎」の墓参りを
欠かさなかった。体が衰え不自由になっても、それだけは続行したのだという。

いつも、息子の墓は後で、必ず、白井氏の墓を先行した。

「突きを教えたも、皆、罪は我也。」一生涯詫び続けた。


詫びて耐えて、苦しみ続け、ついに、天は、
父、成田外記右衛門に『満願の老い』を与えた。

永久の安息の時を、彼は受け入れた。



戦争とは、なんと罪なのだろう。白井小四郎氏も、成田外記右衛門も、善人すぎる程の善人だ。
幼い上、武士の教えが絡まって、状況判断を誤った才次郎とて、親の言いつけを素直に実行した清い少年。
それなのに、戦争は皆を苦しめて死なせてしまった。

どうしてなんだ!この事実があったにもかかわらず、明治、大正、昭和・・・戦争ばかり!!
参考までに、刃傷松の廊下事件とは▼
matu.gif
■ 前:浅野内匠頭、後:梶川与惣兵衛
・「殿中でござるぞ!」「お放し下され梶川どのぉ~!」
刃傷松の廊下事件(1701年)
赤穂城主、浅野内匠頭_長矩(あさの_たくみのかみ_ながのり)が、吉良上野介義央(きら_こうずけのすけ_よしひさ)の陰湿な意地悪に堪忍袋がキレて、ついに爆発、殿中で抜刀して斬り付け、それが原因で切腹&お家取り潰しになった話。

忠臣蔵(1703年)元禄14年3月14日
亡き藩主の無念を思い、大石内蔵助良雄ら赤穂浪士によって、吉良上野介義央に仇討ち。当然全員切腹の覚悟。

▲少年の部、大人の悲劇▼
三浦権太夫義彰



嗚呼、阿武隈川よ!
天高く、鮮やかに舞い上がる一輪の花矢


それは鏃の取除かた矢羽。
射主は、即座に、自ら命を断って、そのまま冥土へ旅立った。

三浦権太夫義彰、享年32歳

辞世の句
あす散るも色は変わらず山桜

この続き
二本松戦SERIES:No.1No.2No.3No.4No.5No.6(現在の頁)<No.7No.8
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幕末のオーバーザレインボー

文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示


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